「震災忌向あうて蕎麦啜りけり」久保田万太郎  前編【激震〜本郷〜池袋】

 「震災忌」と申しますと、秋の季語、関東大震災の忌日を表すそうではありますが、このブログを書いている本日は、現代の震災忌、3月11日です。ブログ記事として更新するのは、翌日12日になりますが。
 さて、本サークルブログの趣旨からはだいぶずれるのではありますが、この機会に、「あの日」の自身について思い出して、文章にまとめてみようかなと思い立った次第。たどたどしい記憶と文章ではありますが、まとめてみようと思います。
 だいぶ長文となりましたので、前後編に分けて掲載いたします。まずは本日、前編を。



 さて、2011年3月当時、私は4月から大学4年生になろうというところの春休み。私は3月10日から、下宿先の宇都宮から一泊の帰省、東京の実家に来ていました。11日は、母とともに、東京は本郷の東大病院に検査入院中の弟を見舞いに来ていました。私は見舞いを済ませたら、その足で上野から電車に乗って宇都宮に戻るつもりでした。かくして、検査入院のため至って元気な弟を冷やかし、母と私は遅めの昼食を摂るべく、弟の病室の遥か頭上、病院15階のレストランに入りました。
 食べ終わって会計をする時、P波というやつでしょう、小さな揺れを感じました。「なんか揺れてない?」などと言いながら店を出て、下りのエレベーターを待ち始めました。その時でした。
 ビルの高層階ということで、大きな大きな揺れが私達を襲いました。フロア全体が右に左に、動き出したのです。エレベーターホールの大きな窓から見える上野公園、木立や不忍池から、大小の鳥達が一斉に飛び立つのが見えました。
 母が、とっさに近くにいたお婆さんに声をかけ、太い柱の下に座らせました。私はただきょろきょろとしていたばかりで、今思うと恥ずかしい限りです。
 さて、これはビルの高い階だから、揺れが大きく伝わってきただけなのか、それとも本当に大きな地震なのか。私はそんなことを考えながら、窓の外を見ていました。すると、エレベーターホールにいた1人の男性が、携帯電話のワンセグを見始めました。

 大きな地震 ただごとではない

 それだけはわかりました。窓の外を見れば、ビル群の影から煙が上がっているのが見えます。どこかで火災も起きているのでしょう。サイレンの音も聞こえました。
 さすがに最新設備の大学病院、すぐにエレベーターが運転を再開しました。それに飛び乗り、私と母は弟の病室へ。弟は揺れが来た当初、動きまわるキャスターを必死で抑えていたとか。私はベッド脇のテレビを付けました。

 テレビに映っていたのは、信じられない光景でした。同じ映像を、多くの方が見ていたのではないかと思います。よく漫画などで、衝撃的な場面に出くわした登場人物がする、「うっ……」という絶句の感覚。
 さりとて、絶句もしていられない状況が目の前にありました。交通機関の麻痺です。この足で宇都宮へ行くなど夢のまた夢。都内の実家に引き返すことも出来るか出来ないか。
 今思えば、ここでこのまま病院や近隣の施設にとどまるのが、「行政的に正しい」振舞いだったのでしょう。しかし、その時私と母は、バスなどの代替経路で帰宅を試みることにしました。「とりあえず帰ろう」という意識が先行したこと、自宅で怖い思いをしているであろう祖母や猫のこと、そして家のことが、心配でした。

 ともかく、病院の公衆電話で自宅に電話し、祖母の無事は確認できました。父の携帯電話にも繋がり、声を聞くことが出来ました。これもまた、今思えば、災害時に限られた通信回線を無用な安否確認に使ったとも言えるかもしれません。ともかく、その時に思いつくベストを尽くした、この時はただそれしか無かったのです。

 さて、電車は全線ストップとはいえ、バスは動いている様子。弟と別れ、東大病院からバスでの帰宅を試みることに。揺れがあった時にはオロオロとしていた私でしたが、今度は交通系趣味者でもある私が活躍する場です。
 私が考えだしたのは、本郷三丁目の駅前から池袋行きのバスに乗り、池袋から渋谷行きのバスに乗り換えるルートでした。渋谷から、私の家の最寄り駅までのバスが出ています。

 しかし、本郷三丁目のバス停には、いっこうに池袋行きのバスが来ませんでした。他の系統のバスはどんどん来るのに、池袋行きだけ来ません。道路状況などが関係しているのでしょう。私と母は、歩くことにしました。

 母は脚が良くなく、だいぶゆっくりとはなりましたが、同じような境遇と思しき大勢の人々で混み合う都内の歩道を歩いて行きました。

「徐州 徐州と 人馬は進む」

 戦時歌謡「麦と兵隊」の一節が脳裏をよぎります。自宅 自宅と都民は進む。
本郷から池袋へ。優しい地元のオバチャンや、路上で交通整理をしているお巡りさんに道を教わりながら、北西方向へ歩きます。途中、私が宇都宮への車内で食べるつもりで買ったパンなどで糊口をしのぎつつ。
 ようやく見知らぬ道を歩き、やがて空は暗くなり、ようやく見えてきたのは池袋の高層ビル群。
 母は「ようやく歩かなくて済む」と安堵の表情。池袋サンシャイン界隈であれば多少は土地勘があるため、私もかなり安心感。
 知っている景色が目に入ると、人はアレほど安心するものなのか、と実感しました。
 そして、池袋駅東口のバスターミナルに辿り着いた私と母が目にしたのは、災害時「帰宅難民」の言葉のイメージそのものの、異様な光景でした。


 後編へ続く